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龍馬道り

長崎県長崎市

撮影日:2010年02月24日

 亀山社中まで、残り100mです。夏場になると龍馬通りは応えます。なるべく涼しい季節に来たほうがいいですね。
写真にマウスを載せると、少し違った角度の写真に変わります。

長岡謙吉(ながおかけんきち)
(1834〜1872 高知県生まれ)


 大坂で医術を学んだほか、長崎でも修行し、安政6年(1859)に再来日したシーボルトに師事したとも伝わっています。その後脱藩して、坂本龍馬と再会。亀山社中・海援隊と行動を共にしました。学術に秀でた長岡謙吉は、龍馬の秘書役、海援隊の文司として活躍し、慶応3年(1867)の「船中八策」「大政奉還建白書」の作成にも携わりました。
龍馬の死後、慶応4年(1868)には土佐藩から海援隊長に任命されました。明治以後は政府に入り活躍しました。

 ここからの風景も、墓地や長崎の斜面に建ち並ぶ町が見えるので、大好きな場所でもあり素敵な眺めです。龍馬もきっと見てた光景だと思うと、同じ息吹を感じる空間だと思います。

 今度は、”ようこそ!”亀山社中へ60mの龍馬案内板です。汗も龍馬とともの、ここちよさ。う〜ん、そう思うと、汗を書くのもいいかも。

 亀山社中まで後少し、汗を掻いたのでここで少し休憩しました。ここに暮らす人々は大変でしょうね。階段だから、バイクも駄目だし、毎日の買い物はどうしているんでしょうね。


中島信行
(1846〜1899 高知県生まれ)


 明治の政治家。元治元年(1865)脱藩し、のちに亀山社中・海援隊に参加しました。龍馬の信頼が厚く、慶応3年(1867)に起こった「いろは丸事件」の損害賠償金問題では、紀州藩との交渉と賠償金の受け取りにあたりました。また、慶応3年(1867)9月、龍馬が土佐に最後に帰郷したときにも同行しています。明治以降は政府に入り、神奈川県令や元老院議官、(初代)衆議院議長、イタリア駐在特命全権公使等をつとめました。

 この階段を上り切ると、左側に「亀山社中記念館(亀山社中の跡)」です。その先に「龍馬ぶーつ」もあります。
写真にマウスを載せると、少し違った角度の写真に変わります。

 昨年、龍馬通りに来た時には無かった「龍馬茶屋」です。中には、グッズなども売られてありました。が、お客さんは 今のところまだ少ないようです。夏になれば暑くなり、汗をかいたり喉も渇くので、きっと、ここで休憩するお客さんも増えるでしょうね。 外観と店の看板「龍馬茶屋」からのイメージと違って店の中はおしゃれなカフェの空間で、窓から日差しが入って明るく、窓からの眺めも良いようです。 最初、外観と「キリン一番搾り」を見て、?飲み屋さんかな??っと思い、こんな場所に出来ても来る人いないのではっと思って中へ入って見ると、おしゃれなカフェでそのギャップにちょっと笑ってしまいました。
場所は、亀山社中記念館の真下なので、良い場所ですね。 女性に人気がでそうですね。
写真を撮っておくべきでした。
帰って調べて見ると、ここの知り合いの方のブログでも紹介してありました。

 おつかれさまです。亀山社中は左ですの龍馬案内板、左へ進むと風頭公園の龍馬像(500m)へ行きます。


     
     
     
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