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龍馬道り

長崎県長崎市

撮影日:2010年02月24日

 ここから龍馬通りが続き、約5分くらいで「亀山社中記念館(亀山社中の跡)」へ着きます。のんびり歩いても約10分あれば着くほどの距離ですが、ここから先は、長崎独特の坂道と階段が続くので、結構疲れます。夏場だと、かなりしんどいです。何度か、ここから「風頭公園」へ向かったことがあるのですが、夏場は日差しが強いので、汗びっしょりになり物凄く喉が渇きますので、必ず飲み物を買って持っていくといいです。今日は、ちょっと、周りの景色を楽しみながら、風景を撮りながら上がって見ました。場所は「興福寺」より約235m先です。

ここからが龍馬通りの始まりです。「亀山社中」は、この写真で上の緑の木が見える辺りです。

”龍馬がゆく道“スケッチ
 中島川流域に発展した長崎の町文化。その中流域、風頭山の斜面に向かって広がる八幡町・寺町伊良林あたりは、文化・景観とも独特の長崎らしさを今に伝えています。風頭山北側に連なる小高い丘は亀山とよばれ、この中腹にオランダ貿易のため幕府の援助のもとに亀山焼窯が作られました。(文化元年〜慶応元年)この亀山焼は長崎遊学の文人墨客に好まれ、八幡町に居をかまえた画家木下逸雲の作品をはじめ数々の名品が生まれました。窯が途絶えた現在でも、幻の亀山焼としてその美しい南画風の絵柄とあいまって好事家達を魅了しています。
 幕末には、この地に坂本龍馬が
日本最初のカンパニーと言われる亀山社中を創設。(現在の亀山社中)亀山社中は、のちの海援隊の前身であり、日本史上重要な意味を持つことになります。また、その近くには、深い森に囲まれた若宮稲荷神社があります。竹ん芸で知られる「伊良林くんち」をはじめ数々の歴史を持つこの社の大きな樹々と広い境内は、地域の人々の憩いの場として親しまれています。
 このような歴史的背景を持った伊良林には、長崎らしい風景が今も生きています。亀山社中ば活かす会では、この伊良林を市民・観光客ともに更に楽しめる散策ゾーンとして生かすことをめざして、この文化遺産の活用や住環境の整備などを検討中です。
そして、この一帯の散策路を
”龍馬がゆく道“と名付け、多くの人々に長崎の「散策の小径」として愛され活かされることを願っています。
”龍馬がゆく道“をゆこう
”龍馬がゆく道“は、長崎における幕

 末史ゆかりの散策路である。眼鏡橋から始まり寺町通りを過ぎる頃、亀山社中方向への登り口がある。石段を登りきった後、伊良林一帯をまわり若宮稲荷神社の境内へ抜け、参道を下りていくと、ふたたびもとの登り口につながる環状の小径となっている。
深崇寺と禅林寺の間を抜け亀山社中へと向かう坂道は、
”龍馬通り“と呼ばれ付近の人々に親しまれている。
 急な勾配の石段を登りながら楽しむ景観はすばらしい。そのまま登りつめると、風頭公園。
坂本龍馬の銅像が海からの風に立つ。
長崎の街や港を見下ろしながらこの径を辿れば、かつて、このあたりを闊歩した龍馬や亀山社中のメンバーたちの姿がしのばれる。

一応、案内板が出ていますので、興福寺より先へ向かうと右手に見えてきます。


最初は、こんな幅の広い階段?です。この先体力のない方は、結構応えるかな?。


 所々に、龍馬と関係する人物の案内板が建っています。以前は、無かった様な気もします。って、いつも、友達などと来るので、おしゃべりで回りは見てなかった気がします。
近藤長次郎
(1838〜1866 高知県生まれ)


 幼い頂から学問・武術を好み、江戸にも遊学して高島秋帆(しゅうはん)からも砲術を学びました。
海舟に入門し神戸海軍操練所でも修行を続け、慶応元年(1865)の亀山社中結成に参加し、「龍馬の片腕」と呼ばれました。この年、薩摩藩の名義を借りた、長州藩のための軍艦・武器購入の計画が起こると、中心的役割を果たしました。

 しかし、慶応2年(1866)英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根(こぞね)邸内で切腹しました。のちにそれを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と、妻・お龍に語っています。近藤の墓は、現在でも長崎市寺町の 晧台寺(こうだいじ)に残されています。


龍馬通りには、龍馬のリリーフがあります。これを見つけて歩くのも楽しいかもしれません。


 これも以前無かったと思います。この周辺には「長崎先人の墓」があることは知ってましたが、今回は時間は無いので次回にします。

 こんな風に案内板があるので、道を間違えることなく亀山社中へ辿り着けます。ここにも、龍馬と関係した人物の案内板が・・・この場所とは、まったく関係ありません。


陸奥宗光
1844〜1897 和歌山県生まれ)


 明治の外交官、政治家。文久3年(1863)勝海舟に入門。神戸海軍操練所に学び、坂本龍馬と交友を深めました。その後、亀山社中、海援隊と、終始龍馬と行動を共にしました。龍馬は陸奥宗光(むつむねみつ)の才能を高く評価し、「大小の刀を取り上げても路頭に迷わないのは、僕と君のみ」と語っています。また、陸奥宗光は長崎で外国人の家庭に住み込み、英語を学んだとも伝わっています。明治以後は政府に入り、農商務大臣・枢密顧問官をつとめ、明治25年(1892)外務大臣となり条約改正と日清戦争の外交指導に尽力しました。

旅 程 (長崎さるく)  食事
2/24
(水)
晴れ 9:40長崎と龍馬 臨時駐車場(シャトルバス)---長崎歴史文化博物館(長崎奉行所 龍馬伝館)9:48---シャトルバス11:30---中央橋バス停11:38---海援隊発祥の地 土佐商会跡11:39---長崎まちなか龍馬館11:44---ドン・シューズ12:11---723長崎大水害水位12:22---龍馬通12:38---近藤長次郎12:40---長崎先人の墓12:44---陸奥宗光12:44---沢村惣之丞12:46---長岡謙吉12:50---中島信行12:57---龍馬茶店12:58---亀山社中の跡(記念館)12:59---龍馬のぶーつ像13:00---亀山社中の跡(記念館)13:09---良林亭跡13:26---亀山社中資料展示場13:26---若宮稲荷神社13:45---龍馬通りへ13:53---風頭公園14:10---風頭大権現14:20---上野彦馬の墓14:22---風頭公園(坂本龍馬象)14:24---上野彦馬の墓14:26---風頭公園展望14:29---龍馬通りへ14:38---玉川亭跡14:49---木下逸雲宅跡14:50---高麗橋と伊勢宮14:51---倉田水樋水源跡14:53---上野彦馬宅跡14:55---上野撮影局と中島川14:58---長崎聖堂跡14:59---あみだばし15:01---古町橋15:17---光永寺(福沢諭吉)15:19---一覧橋15:22---芋原橋15:23---東新橋15:25---魚市橋15:27---眼鏡橋15:33---黙子如定の像15:34---袋橋15:37---中島川の成り立ち15:38---上野彦馬生誕地15:39---中央公園(ランタン会場)15:47---ミゼリコルディア本部跡15:50---小曾根邸15:51---海援隊発祥の地 土佐商会跡16:06---福砂屋16:20---山の口16:21---思切り橋・見返り柳16:21---丸山町交番16:23---寄合町遊郭16:25---丸山公園の龍馬銅像16:25---花月16:27---中の茶屋16:39---梅園身代り天満宮16:48---高島秋帆旧宅16:59---正覚寺17:10---オランダ坂17:16---料亭 青柳17:18---丸山本通りを望む17:19---高島秋帆旧宅17:22---丸山花街17:28---丸山公園の龍馬銅像17:29---浜市アーケード17:51---鐵橋17:58---湊公園会場(ランタン)18:40---長崎新地中華街18:28---眼鏡橋19:44---興福寺20:12---崇福寺20:45---中央橋バス停21:30---稲佐山展望21:50

     
     
     
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